利央の家から歩いて十分かかるかかからないかの距離を、遠回りして公園でお喋りして、キスして、駅までたどり着いたのは家を出てから四十分後。それでもまだ利央は名残惜しそうに私の手をゆっくりと離して、周りに人がいないことを確認して一瞬キスをする。いつでも必ず利央は私が改札を抜けてからホームに行くまで 私を見ていて、定期を改札に通した後振り返って手を振ると、優しく微笑んで一度だけ手を挙げる。私が人ごみに紛れてしまっても、大きな利央は私の方からはよく見える。ホームで電車を待っているとすぐに携帯が震えて、いつも通り「気ぃつけて帰れよ」とだけの短いメールが利央から届く。私はパタンと携帯を閉じ、私の鼻先 をくすぐった利央のやわらかい金色の髪を思い出して、一緒にいた余韻に浸る。好きだなあ、改めてそんなことを考えて私はとても満たされた気分に包まれる。





その空気を破るようにポケットの中で携帯がもう一度震える。利央にはいつも家についてから、「ありがとう、今着いた」と送るように自分の中で決めていて、メール不精なわたしに利央が合わせてくれていることもあって、よっぽど重要な用でもない限り利央が電話をしてくることなんてない。というか直感のようなもので、なんとなく着信が利央ではない、他の人物であることは分かっていて、その人物にも見当がついているからこそ、私は一気にやるせない気分になって、大きなため息をついて、渋々ボタンを押す。




「はい」
『俺だけど』
「…どうしたんですか」
『冷たいじゃん、機嫌悪い?』
「…別に」
『あ、利央といたんだろ、仲良ーなほんと』




軽薄そうな喋り方が一層私を苛立たせる。きっと彼もそう気付いていてわざとそうしているんだと思う。いつだってこの人は私で遊んでいて、精一杯相手をしていないように振舞っても振り回されているのは私なのだ。




ちょっかいを出されてまんまと好きになって、彼が飽きて次へ行くまで適当に遊ばれる。私にとっては世界が違い過ぎて信じられないけど、島崎慎吾にはよくあることで、私もそれに巻き込まれた被害者に過ぎなかった。
彼が好きだと言うから私も好きになったというのに、彼はあまりにも不誠実で、純粋だった私の心は放課後教室で私の知らない先輩とキスをしていた慎吾さんを見てぽっきり折れた。これ以上傷付くのはうんざりだと思ったわたしはさっさと身を引いて、なるべく慎吾さんのことを考えないよう過ごした。そんなことをいるうちに彼は卒業して、慎吾さんの時よりももっと自然な流れで私は利央と付き合う事になった。4番だった慎吾さんの彼女であった私はマネージャーの中でも未だに部員から特別であるかのように少し気を遣われている。それは私にとってすごくやり辛いのだけど、鈍い利央は気付いていない。慎吾さんと付き合っている時はそれが私を優越感に浸らせていた事も。




利央の真っ直ぐな好意は嬉しかったし自分の好意を受けてもらえるのも嬉しかった。それを平凡だと感じるのはすごく贅沢で、今なら痛いほどにそう分かるのに、魔がさした。





慎吾さんは、地方の大学に行ってしまった和さんの代わりにOBとして野球部の練習を見に来てくれていた。と言っても慎吾さんが野球部に予定を合わせるということはなく、週に1度あるかないかという頻度だったけど。その頃利央は練習が終わった後も準太先輩と居残って練習をしていて、私は一人で帰ることが多かった。ある練習の帰り、いつものように着替えを終え、一人で校門を潜り抜けると慎吾さんが待っていた。
よう、と声をかけられて、私と慎吾さんと言えば別れてから完全にそれっきりだったので驚いたけど、懐かしさと共に甘く込み上げる何かがあった。そんな下心には気付かないフリをして、流されるままに慎吾さんの誘いに乗って、慎吾さんの車で夜景を見に行って、車の中でそのままセックスをした。慎吾さんとのセックスは初めてではなかったけど、初めて見る運転中の慎吾さんの横顔だとか、きらびやかな大学の話とか、付き合っていた頃よりも幾分か丸くなって優しく甘い言葉をかけてくれる慎吾さんは当時の私にとってとても刺激的だった。優しい利央とでは埋められないモノを埋めるように、私は繰り返し慎吾さんと体を重ねた。






急に怖くなった。優しい利央を裏切り続ける罪悪感は当たり前だけど大きくなるばかりだったし、それ以上のことは求めない慎吾さんにも、彼にとっての私の必要性が少しも見出せなくて不安になった。失うものが大きいとしたら、利央と別れることだった。実りの無い関係を慎吾さんと続けて居たって未来はない、経験からも痛いほどに分かっていた。
利央を大切にしたい、だからやめましょう、という私の身勝手な提案を、慎吾さんは、いいじゃん別に、バレてねんだし、と一蹴した。いけないとは分かっていても、慎吾さんの押しに負けては流されてを繰り返し、結局状況は変わらないまま。結局私にはどちらも手放す勇気なんてないのだから、元よりこんなことを始めるべきではなかったのだ。利央との付き合いに幸せを感じる資格なんて本当は私にはない。








『誘われたら来るだろ、お前は』
「…ほんとに、むかつきますね」
『やー、んでいつ帰ってくんのかね、お前は』
「…帰りませんよ、今わたし利央が好きです、本気で」
『知ってるよ、でも俺のことも好きだろ』






一番最低なのは、誰でもなく言い返せない私だ。どちらも手放せないなんて許されて良いわけがないのに、この人がそれを許してくれるから、最低な行為を繰り返す私が楽になれる方法をいつも知っていて、そうしてくれるから私はこの人から離れることが出来ない。






『ごめん泣いてる?言い過ぎたって』
「泣いて、な…」
『迎えに行くわ、まだ利央ん家の近く?』
「も、いや、大丈夫です…帰れるし」
『どーせ今車でブラブラしてたから5分ぐらいで行けるし』
「でも…」
『いいじゃん、乗せてやるよ、部員で乗ったことあんのまだお前だけだよ?』
「そうじゃなくて、」
『好きだろ?特別扱い』






どうしてこの人の言葉には抗うことを許さないような強さと、どうしようもなく惹かれてしまう魅惑的な響きがあるのだろう。どうして私が求める言葉が「最低じゃないよ、大丈夫」という否定ではなく、「最低だね、でも許してあげる」という肯定だと言うことを知っているのだろう。利央が埋めてくれない私の影の部分をこの人が受け入れてくれる限り、きっと私はこの人から逃げられない。私が寄りかかればすぐに消えてしまうくせに。
















むせていく劣情