前に付き合った男が本当に酷い男だった。浮気されて逆切れされて軽くDVに走った後何故か私が捨てられた。一年以上付き合ってデートらしいデートなんて最初のほうに数えるほどしただけで、セックス以外の記憶がない。酷く不健康な一年だったことを思い出しながら、次は健全な恋愛がしたいと呆れ半分の友人に熱弁しながら、大声で「潮干狩りとかハイキングとかそんなデートがしたいの!健康的な!」と叫ぶと、後ろの席の佐伯が吹き出した。



「ごめん聞くつもりじゃなかったんだけど」
「もーいいー、どーせ佐伯も馬鹿にしてんでしょ」
「いや、すげーいいなと思って」




程なくして私と佐伯は付き合いだして、順調に三ヶ月が経過した。最初は佐伯のルックスや人気に引け目を感じていたけど気取らない佐伯との付き合いを私も心から楽しんでいたし、友人にはバカップルなんて言われて満更でもない自分がいた。




、後ろパンツ出てる」
「うそ!やばい夢中になりすぎてた」




スコップで砂浜に穴を掘ることに夢中になりすぎて、しゃがみながらの移動を繰り返しているうちに腰ではいていたジャージがお尻の方までずり下がっており、私の色気もくそもないキャラもののパンツが半分も顔を出していた。
私達はよく早朝の海を散歩したり、潮干狩りをしたり、佐伯がサーフィンするのを見ていたりする。そのために朝の5時に起きると言うと、友人は理解出来ないというように顔をしかめたけど、まあいいんじゃないの、と諦めたように言い捨てた。彼氏の家でセックスし続けた一年間に比べれば、そりゃあ良いだろう。
「見られたの佐伯だけで良かったよ」、と私が笑うと、「逆じゃないの」と佐伯も笑う。ジャージを上げるために立ち上がろうとしたところで腕を引っ張られてバランスを崩した私は膝をついて倒れこむように佐伯の腕の中に入った。そのまま体重を預けるように凭れ掛かっていると、それを押し返すように佐伯は私を砂浜に押し倒した。髪に砂が絡まることも気に留めず佐伯は体重をかけたまま私に口付ける。




「重い」
「いつになったら名前で呼んでくれんの」
「…ごめん」
「呼んでくれたら退くかも」
「虎次郎くん」



やばいクるなー、なんて言って佐伯は笑いながら体を起こす。佐伯との日々は愛に溢れている。私の何がそんなに彼をそうさせるのか、友人にも呆れられるほど佐伯は私のことを愛している。
ほんと好き、そう言いながら佐伯は私の腕を引っ張り起こして胸の中に閉じ込める。背中に張り付いた砂など彼にとってはどうでも良いようだ。私も佐伯のことが好きだ。何の不満も不安もないはずなのに、彼の愛情を真っ直ぐに受けた時何故か少し身構えてしまう。胸の翳りを打ち消すように私も佐伯の背中に手を回して抱きしめ返すと、彼が震えていることに気が付いた。
佐伯はたまに唐突に理由もなく泣く。正確には理由もなく、ではなく私に理由が理解出来ないというだけなのだけれど、とにかく佐伯は私のことを愛しすぎるあまり、恥ずかしげもなく涙を流す。最初は随分動揺したけど、回数を重ねるうちに慣れた。
初めて佐伯が泣いたのは、佐伯の部屋で初めてセックスした時だった。私が初めてではなかったので、前の彼氏に抱かれていたことを想像して悲しくなったらしく、佐伯は「が悪いわけじゃないのにごめん」と言って泣き続けて、その日は最後まで出来なかった。自分が酷く穢れているような気になって私も家に帰って泣いた。






「…どうしたの」
「…ごめん、本当ごめん、が…前の彼氏のこと名前で呼んでたの思い出しちゃって」
「…今は苗字で呼んでるよ」
「違うんだ…怒ってるとかやめろって言ってんじゃなくて、なんか」
「…うん」
「ごめん…何も無い…ちょっと自己嫌悪入った、ごめん、本当に」
「いや…大丈夫」






前のこと言われても仕方ないんだけど、と言い返してしまうのは簡単だけど、こんな佐伯を前に言い返せるわけもなく私はいつも佐伯が泣き止むまでひたすらに黙って時を待つ。
いつも明るくてしっかりした佐伯からは想像できないほど弱弱しい姿に、私はいつも心を痛めるわけでもなく、なんとなく無になる。受け入れたくないのか、ただ単純にどうすればいいのか分からないのか、今日はどのぐらいかかるだろう、とか人事のようなことを考えながら佐伯の次の言葉を待ち続ける。






今でこそ前の男は最悪だったと友人にも笑い飛ばせるほどになったけど、実際浮気された時は死ぬほど悲しくて今の佐伯なんて比じゃないほど毎日泣いた。何で、と問い詰める私に彼は「お前すぐ泣くし重いんだよ」と言い捨て、その言葉はしばらくトラウマになった。泣いてはまた彼を困らせると思いながらも、一緒にいても一人でも途方の無い悲しさに襲われて涙が抑えられなかった。ただ彼に愛されたかった。毎日泣いて泣いて、わけがわからなくなってきて涙も枯れた頃に「お前といると頭おかしくなる」と別れを告げられて、本当に無の毎日を過ごした。何も考えられなかったけどぼんやりと誰かに愛されたいという思いだけはあって、実際佐伯と付き合う時もすごく慎重になった。私を愛してくれる、という意味で佐伯は何の申し分もなくて、本当に毎日幸せだった。
ただ佐伯が涙を流すたびに前の彼氏の「重い」という言葉が頭をよぎって、私の不安を募らせた。佐伯のわけの分からない被害妄想だとか、自己嫌悪は理解は出来ないけど、どうしようもなく気持ちだけは分かってしまって、彼に泣きついていた自分のことを思い出して何も言えなくなる。
好きな人に同じだけ愛されたいという気持ちや、その辛さを知っているからこそ、私も佐伯が愛してくれるのと同じだけ愛したいと思うのに、佐伯の強い思いを受け止めるのは少し怖くてやっぱり身構えてしまう。




、俺本当にのこと好きだよ」
「うん、私も好きだよ」
「本当に、ほんとに好きなんだ…」




こんな時、なんて言って欲しいか知っている。でも知っているからこそ、言ってしまうのが怖い。だから私は曖昧な力で佐伯を抱きしめ返すことぐらいしか出来ない。



いつも滲み始める私の胸の黒い翳りを、潮干狩りとか、ハイキングとかいかにも健康で楽しそうな思い出で塗りつぶすけど、本当に私がしなければいけないのはそんなことじゃなくて佐伯と向き合うことなんだって分かってる。けど受け止める自信がないから逃げてしまう。私が逃げてしまえばいつまでも繰り返すことは分かっているのに。愛されたかったし、私も佐伯のこと愛しているはずなのに、これで良かったんだろうか、なんて子供みたいなことを考える。前の彼氏の「重い」という言葉や友人の呆れた顔が離れない。誰かにはっきりとこの選択を正しいと言い切って欲しい。間違いないって思えれば、迷うことなく佐伯の愛に応えられるんじゃないだろうか、っていうのも私の言い訳なんだろうか。分からない。答えが出なくてモヤモヤと繰り返す。迷い始めたところでもう遅いというのに。












後ろめたい肢体