「嶺二、煙草やめるって言ってたじゃん」
「やめてたんだけどね…やっぱ寂しいと無理」




久々に訪れた嶺二の部屋は、相変わらず旅行用のトランクが開いたまま床に放り出されていたり、私服や楽譜が散乱していて明日の踏み場もないというのに、キッチンだけはずっと使われた形跡もなく綺麗なままで、会わない間の嶺二の不健康な生活が容易に想像出来た。
テレビの画面の向こうの茶目っ気たっぷりのアイドル寿嶺二からは想像もつかないけど、今私の目の前にいる散乱した部屋の中で煙草を吹かす寿嶺二の方が今や私にとってはしっくり来る。煙草。ガラスの灰皿。瓶詰めの胃薬。コンタクトの空箱。黒縁の眼鏡。無造作に物が置かれたテーブルに足を置いて、嶺二は変わらず煙を吐き出し続けている。ファンの子って、こういう嶺二をどう思うんだろうか。嶺二がアイドルになる前からずっと一緒にいるせいか、画面の向こうの嶺二と、素の嶺二のギャップに何も思わなくなった。


足元に落ちていたコンドームの箱を拾い上げる。そう言えば前に来たときに使い切ったことを思い出した。と言ってもそれももう二ヶ月は前だった気がする。浮気なんてする暇がないことは十分分かっているし、疑っているつもりもないけど、私が二ヶ月していないということは、嶺二も二ヶ月ご無沙汰だということだ。25歳ってもう性にガツガツした年ではないのかもしれないけど、嶺二とは付き合いが長い割りにセックスの回数がそんなに多くない気がする。ほどよく疲れている時はそういう気分になったりもするらしいけど、今日なんてハナからそんなつもりはないってほどの疲労が同じ部屋にいるだけで伝わってくる。


コンドームの箱なんてまじまじと見ていたから勘違いされたのか、「今日はもう一滴も出ないから出来ないよ」なんて憎まれ口を叩かれて思わず、そんなつもりで来たんじゃない、と強めに言い返す。本当にそんなつもりで来たんじゃない。嶺二と触れ合う時間の少なさを寂しく思った時期もあったけど、出かける前や本番前にはラムネを食べるかのように胃薬を流し込んで、目の下にクマを作って楽譜を覚える嶺二を見ていたら不満なんて言えるわけがなかった。普通のカップルなら許されるような不安や不満を全て飲み込んで、それでも私は嶺二といることを選んでいる。
今日だって、久しぶりのオフだって言うから家に遊びに来たのに何よ、って責めたい気持ちがなくはない。こうやって嶺二に適当に扱われた時、寿嶺二の彼女である前に自分が普通の20代の女だとことを思い出してはハッとする。私だって彼氏が普通の大学生とかサラリーマンだったらきっと容赦なく我儘を通す。今となっては我慢やそれを言わないことは義務化されしまった。だからって不満が消えるわけじゃない。言いたいけど、言えない。何よりも嶺二を追い詰めてしまうことが、怖い。




「DVDでも借りてこよっか?」
「…気分じゃない」
「じゃあおなか空いてない?買い物行って来ようか?」
「昨日接待飲みでまだ気持ち悪いんだよ。何も食べたくない」
「煙草吸いながら胃薬がぶ飲みするなら、お粥でも食べたほうがお腹にいいと思うけど」
「分かってるよ…」
「…そんなんなら何で呼ぶの」
「…じゃあ帰って、今日は優しく出来ない」
「じゃあ帰る」



自分だけが嶺二に優しくしてもらえないという歪んだ特別感が私を優越に浸らせたりもするけど、はっきりとした拒絶にやっぱり傷付かなくもない。でも、柄にもなく素直に苛立ちをぶつける嶺二には余裕がないけど、嶺二余裕ないなって冷静に見れるぐらいに私には余裕があるし、だからこそ付き合っていられるのだとも思う。私の我慢で成り立ってる、なんて思うのはおこがましいけど、多忙で不安定な嶺二の彼女でいることは我慢が必要なのだ。
少しの躊躇いも見せずにバッグを肩にかけて玄関の方に向かうと、後ろから引き寄せられて嶺二の腕に閉じ込められたので、私は別に驚くこともなく体を委ねる。そうなることは予想出来てた。



「嘘、帰んないで」
「…じゃあ帰んない」
「…ずっと寝れてない」
「一緒に寝てあげるから」
「…ごめん」


ゆっくりと腕を解いて嶺二の方に向き直る。少し背伸びをして包むように抱きしめると、嶺二も安心したようにゆっくりと抱きしめ返してくる。嶺二は私がいなきゃ駄目だね、と呪いのような言葉を白々しく吐き出せる自分に嫌気が差すけど、うん、と言って嶺二が私を抱きしめる腕に力を入れたので、いつまでも我慢の日々が続こうと、意地でも私はこのポジションを手放すようなことはしない。
嶺二がみんなのものになるずっと前から、嶺二は私のものだ。










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