「帰りたくないです」「帰らんといて下さい」舌ったらずに甘えながら後ろをついてきていた声が急になくなったので、流石に何かと思い振り向くと、道に蹲み込んだ隠岐が「あ、あかん」という声と同時に嘔吐した。


なんとかごねる隠岐を連れて駅のロータリーまでは来ていたというのに、4分後に発車する終電は絶対に乗れない。ぐずぐずと泣きながら、ごめんなさいと繰り返す隠岐をベンチに座らせて、近くの自販機で水を2本買った。

1本を隠岐に渡し、もう1本は先ほどの隠岐の吐瀉物にかけて少しずつ道の端に追いやっていく。もったいない、流石にうんざりしてため息をつくと、隠岐がもう一度ごめんなさいと嗚咽混じりに呟く。こんなにぐしゃぐしゃでも、愛らしく垂れた目の目尻を一層下げて懇願するような顔が可愛くて笑える。


結婚してボーダーの地方組の寮を出た。年齢的に順当だった。同じ部署の先輩と、ボーダーの福利厚生でそれなりに懐の温かい暮らしだし、戦闘員に比べて技術職同士の生活は安全で安定だ。隠岐のように若く美しい男じゃないけど、優しく聡明な彼には何の文句もない。

畑違いの私に何故か懐いてくれた隠岐。もちろん隠岐のことを可愛く思う気持ちはあったけど、逆に私の何が彼をそこまで執着させるか分からなくて受け入れることは出来なかった。整った顔に、いつまでもきめ細かい肌を見て、これを手に入れていたら、と思う日もあった。

でも何歳も年下の彼は最近飲めるようになった日本酒を私に合わせて飲んでは、よく理性を失ってこうしてぐずぐず泣いている。その姿を見ると、惜しくはあっても自分の選択は間違えていなかったと再確認する。そうは言いつつ甘え上手の彼に負けてこうしてたまに飲みに行くという謎の関係だけは続いていて、私も私だ。


500mlのペットボトルの水を全て流し終え、これ以上はいいか、と判断して泣き続ける彼の横に腰掛けると、隠岐は私の肩に恥ずかしげもなく頭をもたげた。女の子のように情けなく縋る姿も様になるのだから嫌味だ。


「先輩、ちゅーしたいです…」

「ゲロ味は嫌だよ」

「じゃあ手繋ぎたいです」


私の了承を得る前に指を絡ませてくる。反対側の手でスマホを開くと旦那から「大丈夫?帰れる?」とメッセージが届いている。片手で「大丈夫、先に寝てて」と返す。勝手に繋がれる手、たまに受け入れる子供をあやすみたいな軽いキスは、裏切りには違いないけど、まだなんとか「でも体の関係はないし」なんて自分に言い訳が出来てしまう。


「朝まで一緒にいたいです…」


どこかに泊まって朝まで一緒にいても、私が本当の意味で受け入れない限り多分隠岐は無理やりセックスに持ち込むようなことはしないだろう。彼はそんなことに困っているわけではないし、今日の痴態だって、流石にこんなことを望んでいるわけじゃないと思う。


「朝まで一緒に居たら、もう会えないかもね」


いっそ、そうなるべきなのかもしれない。旦那のことも隠岐のこともやんわりと裏切りながらこんなことを続けるのなら、もう会えないという理由を作ってしまえばいい。


「…嘘です、迷惑かけてすいません…次タクシー来たら乗って下さい…」


隠岐は呼吸をなんとか整えながら、財布から1万円を出して私のポケットにねじ込んだ。私が困っているのも今日のタクシー代なんかではないのに、「報奨金出たんで、返さんといて…絶対受け取って下さい」なんて言うもんだから、私はまんまと心を痛めて今日も隠岐の精一杯の反省を受け入れてしまう。

きっといつかバチが当たる気がする。許せば隠岐をまた期待させてしまうのに。今回はその時ではないのかも、なんて自分に言い訳しながら、私は白々しくまた変わらぬ平穏を願ってしまう。







殺せない交情