バチン、という弾けるような音が気持ち良いほど綺麗に廊下に響き渡って、その痛々しさに私は思わず目を瞑る。恐る恐る目を開けると、「テメーは死ね!!」と震えるような甲高い声がまた静かな廊下に響き渡って、それからまたすぐにパタパタと声の主は走り去った。こんな場面を見るつもりはなかったのに。この男が女の子を泣かせている所や怒られている所なら何度か見たことがあるけど流石に平手打ちを見たのは初めてだ。今回は何をしたと言うのだろう。 「…いやー女の子がテメーとか死ねとか言っちゃダメっしょー」 「…自業自得でしょ」 たった今女の子に平手打ちを喰らい暴言を吐き捨てられた千石は、赤くなった頬を摩りながらへらへらと薄ら笑いを浮かべてこちらに振り返った。漫画のような修羅場だったというのに、千石は少しも堪えていないというように平気な顔をして、「あ、保健室着いてきて」なんて言った。私の方がまだ少し心臓がバクバクと早く動いていて、うまく言葉が出てこないというのに。 「恥ずかしーなあ、あんなとこ見られて」 「…今回は何なの、浮気でもした?」 「そんなんじゃないんだけどー、まあちょっとねー」 千石は少しも恥ずかしくなんてなさそうに、当然のごとく私の横を歩きだした。さっきの女の子にまたこの場面を見られるかもしれないのに、と不安になっているのは私だけのようで、ここまで来ると、本当に懲りないんだなあと感心する。 放課後の保健室は大抵保険医が職員会議で居ない代わりに解放されていて、部活で怪我をした子がたまに使うぐらいでほとんど人がくる事はない。千石はまるでどこに何が置いてあるのかが全てわかるように手馴れた様子で小さな冷凍庫からアイスノンを取り出して、 ベット脇に積まれたタオルで包むと、それをまだ赤みの引かない頬に当てた。 「私ついて来なくて良かったんじゃないの」 「冷たいなあ、俺さっきフられたばっかなんだから優しくしてよ」 「…慣れてんね」 「ん?」 「手当てっていうか、保健室っていうか」 「ああ、まあ色々お世話になったしね」 千石はさも冗談のように笑いながらそう言ってのけたけど私には色々、の中に本当に色んな意味が含まれているのが分かってうんざりする。部活を引退してから、やたらと放課後女の子と二人で保健室に向かう千石を私も見たし、そんな大胆な事をして噂にならないわけもなく、千石が保健室をホテル代わりにしているなんてロクでもない話をお節介な友達がわざわざ私に教えてきたりもした。 「てゆうか千石さ、さっきのさ、」 「やだなあー掘り返す?」 「避けれたでしょ、絶対」 運動神経の良い千石が非力な女子のビンタ一つ見切れないわけがないし、私の目から見てもさっきの千石はわざと殴られたようにしか見えなかった。振り抜くような彼女の渾身の一撃を受ける勇気があるというのに、どうして一人の人と向き合う勇気は持てないのだろう。そうやっていつまでも誰かと傷つけ合いを繰り返すんだろうか。千石は「さあ」なんて言いながら相変わらずへらへらと薄ら笑いを浮かべている。 立ち上がってアイスノンを当てていた千石の頬に触れると氷のようにひんやりと冷たくて、私の手はやたらと熱く感じた。千石は驚きも拒む事もせず笑顔の奥に潜む挑発的な目で私を見上げている。きっと私がこのまま唇を落とせば千石は私を受け入れて、また私とも傷つけ合いをするんだろう。 「…冷たい」 「冷やしてたからね」 「…死んでるみたい」 「死んでるのかもね」 ぐにゃ、とそのまま頬を力一杯つねると千石は、いってえ、と大きな声を出して飛び上がった。涙を浮かべて、何すんだよ!と訴えかける千石を見て今度は私がへらへらと笑う。千石はふてくされたようにそっぽを向いてまた頬を冷やし出した。私のごめんごめん、と言う声に被さってチャイムが鳴り響いて、どこか不気味で不協和音のようなその音は静かな保健室の中でやたらと大きく感じて、自然と私たちの視線は壁に掛かった時計に集中する。 「帰ろっか」 私がそう切り出すと、何かを期待していたのか、千石は少し残念そうな顔をして諦めたような声で、そうしよっか、とだけ吐き出すように言った。千石と二人になると、何かが起こりそうな、どうにかなってもおかしくないような男女特有の空気が流れる。千石が一生懸命作るこの空気に私は精一杯気付かないフリをして絶対に”何か”は起こさない。私がそう決め込むと臆病な千石は絶対にそれを飛び越えては来ない。千石がそれを恐れているように、私だって傷付くのは怖いのだ。 千石が私だけを選んでくれたら、私も千石だけを選ぶのに。 あまくてやわらかくて すぐにさよなら きみはいつもそう。 |