「やりてえな」



慈郎は表情を変えることもなくぼんやりとそう呟いた。本当にぼんやりとそう思っているだけで、実のところは割とどうでもいいのだろう。大概の事に対して慈郎はそんな風に向き合う。慈郎の気まぐれにいちいち本気で向き合って振り回されるのは疲れるから私も全てに気を遣ったりしない。私たちの関係は今でこそ惰性でしかないけど、慈郎のことが好きだって胸を張ってはっきり言える時期もあった。慈郎のことがすごく好きだった。同じだけ好きになって欲しくて、私が頑張れば頑張るほど一人で空回って慈郎にとって自分は少しも特別なんかではないんだと思い知らされた。無節操に私にちょっかいをかける慈郎に、付き合っていないのにそんなこと出来ない、とかいう常套句で逃げながらどうにかその先に行こうとしたけど、それも長くは続かなくて理性には抗えず簡単に折れてしまった。一人に対して執着しない慈郎が面倒くさい私に飽きてしまって一切の興味を失われるかもしれないと思うと、怖くなって何も言えなくなって、たちまち主導権は奪われた。好きだとは言ってもらえなくても、ただの慈郎ファンとは違う。その優越感だけでいいじゃないかと言い聞かせて来たけど、本当に浅はかだった。当たり前だけど思いは募る一方だ。もちろん私だけが。




「…すんの?」
ゴム持ってる?」
「持ってるわけないじゃん」
「だよなー、今日危ない日?」
「わかんない」
「マット汚したらやばいな」
「外出しする気満々じゃん」
「はは、外ってどこ」
「さあ、お腹?」
「あはは、やらしーなー」




冗談とは言え我ながら下品だ。厳密に言うと安全日なんてものは存在しない。そして死ぬほど気分が乗らない。断って慈郎の機嫌を損ねないように冗談であしらいながら様子を伺ったけど、慈郎もどこまで本気で言っているのか少しも動こうとする気配はない。何が悲しくて漫画喫茶のフラットシートでしなくちゃいけないのか。こんなのは個室じゃなくてただの仕切りだ。ここは漫画を読む場所であって、決してお金の無い学生にとってのラブホではない。前にした時も始終落ち着かなくて、次からは私がお金を出してでもホテルにして欲しいと思った。


出来るだけこの話が流れるように慈郎が脇に置いた漫画を指差して「ページ折れるよ」と言って慈郎の集中を漫画に戻そうと促す。それを邪魔するように慈郎の携帯が震えてまた慈郎の注意を逸らす。慈郎はしばらく黙って画面を見つめたあと、何もせずに携帯をポケットの中に戻した。きっと彼女からのメールだろう。慈郎には「彼女」がいる。他校の子らしいという話は聞いたことがあるけど、顔も見たこと無いし名前すら知らないけど、その携帯と繋がる電波の先のどこかに確かにいる。



彼女は特別だ。慈郎との不誠実な関係が少しも特別ではなくて、彼女になるということの意味を私は痛いほど分かっている。私との待ち合わせには平気で一時間以上遅れて来るのに、私といる時でも彼女から誘いのメールが入れば「悪い」の一言で帰ってしまうし、私の耳には簡単に、また慈郎が部室に女連れ込んで跡部に怒られたらしい、なんて噂が入るのに、彼女から着信があった時には喋るなというように私の口を手で塞ぐ。何度もその手を無視して金切り声で叫んでやりたい衝動に駆られて、そうなった後のことを考えて一人で落ち込んだ。所詮私はいつだって切り捨てられる女だ。慈郎はネチネチと一つのことを責め立てたりはしない代わりにその態度もはっきりとしている。一言二言何か言われるかもしれないけどきっとその後一生目も合わせてもらえないだろう。死ね、とか言われるんだろうか、なんて考えて本当に死にたくなるのだから困る。
私は慈郎とキスやセックスをすることが出来ても、わざわざ祭日の慈郎の誕生日に約束して会うことは出来ない。今週から慈郎のリュックが新しくなっていることにはあえて触れなかった。



彼女からの着信が私の不安を煽って、私は鞄からはみ出しかけているビニール袋を指先で奥へ押し込む。プレゼントなんて用意するんじゃなかった。慈郎がこんなものを欲しているとは思えないし、むしろこの非生産的な関係の中であえて形に残るものなんて送りつけて煩わしく思われるかもしれない。そんな葛藤と戦いながら、それでも買わずにはいられなかった。あまり大層な物を買って重く思われるのは御免だけど、食べ物とか消耗品みたいにその場で消えてしまうのも悲しい。重くなくて、迷惑じゃなくて、でも形に残るもの。こんなくだらないことを一ヶ月考えて必死に搾り出したのがこのアディダスの靴下とスポーツタオルだった。休日に遊んだことがあるわけでもないし、正直慈郎の好みなんて知らないけど、慈郎の持ち物とか身に着けているものから推測して、慈郎に似合いそうなちょっとカラフルでポップなデザインの物を選んだ。前に向日がタオルと靴下の洗濯が追いつかないと言っていたのを思い出して、これならいくらあっても困らないだろうと思って買ったのに、はい誕生日プレゼント、という一言すら言い出せずに喉の奥でつっかえて苦しい。苦しいからやめてしまいたいのに、いつも慈郎触れられた先から少しずつどうでもよくなって、忘れてしまう。でも消えるわけじゃないからいつまでも繰り返す。



慈郎が身を乗り出して顔を近付けて来たので、私は受け入れるように目を閉じる。申し訳程度に触れるだけのキスをすると、「出よっか」と言って私の返事を聞くまでもなく番号札を手に取った。退出時間まではまだ時間があったけど、彼女からメールがあったあたりからこうなるんじゃないかという予想はあった。熱が冷めていくのを感じながら「そうだね」と返事をして素早く身支度をして慈郎を追いかけた。
会計は800円だった。いつも大体で割り勘をするけど、小銭がなかったので私が千円を出すと、私に確認を取ることもなく「俺の分ね」と言って慈郎は私の財布の小銭入れにバラバラと小銭を放り込んだ。いくら入れたのなんて分からないけど、「こんなもんでいいだろ」と言われている気持ちにならないでもなくて、気にしないことが一番だなんて思いながらも、やっぱり私は慈郎のこんな小さな言動一つ一つに踊らされているのだと思い知る。



「じゃ」とだけ言って慈郎は私に背を向けた。背を向けたこの瞬間からきっともう慈郎の頭から私のことは消えているだろう。私がいつまで見つめていても一度だって振り返らない。思った通り言われるまでもなく帰りは別々で、駅へ向かう私とは別の方向に慈郎は歩いていく。やっぱり彼女と会うのだろう。女遊びのハシゴなんていいご身分だ、なんて嫌味なことを考えながらも自然と足は慈郎を追っていた。



「じ、ろ」
「わ、なに」


シャツの裾を掴んで引き止めると、慈郎は驚いた顔をして振り返った。迷惑そうな顔をされなかっただけで安心してしまうんだから私だって相当安い。まじどしたの、と言って慈郎が笑う。もう頑張れないってやめてしまえればいいのに、これだけのことで私はまたしばらくは頑張れてしまうのだろう。頑張る必要なんてないのに。慈郎が笑ってくれるだけで、泣きたくなるほど安心する。




勢いに任せて包装紙に包まれたプレゼントを押し付けた。頭の中では「一日遅くなったけどおめでとう」と、さらりと言ってのけてそれ以上の何かは悟られないように笑顔で帰るシュミレーションを何日もしていたのに、まさかこんな無様な結果になるなんて。



「…プレゼント?」
「うん」
「ああ、これ渡そうとしてそわそわしてたんだ」
「え、してた!?」
「してたしてた、腹痛いんかと思った」




さんきゅー、と言って慈郎は袋をリュックの中にしまった。彼女にもらったであろうリュックに。そうだ、慈郎は今から彼女の所に行くんだった。とりあえず喜んでくれてはいるのだから良かった、いや何も良くはないか、なんて葛藤を自分の中で繰り返していると、「」と呼ばれて肩を掴まれて引っ張られた。一瞬だけ慈郎の唇が触れてすぐに離れる。
「また明日な」と言って慈郎がまた背を向ける。一瞬にして、とりあえず明日はまだ大丈夫なんだ、なんて考えてしまう私は他の幸せなカップルから見るとどれだけ可哀相なのだろう。嬉しくて顔が熱くて涙が出そうになるのを両手で顔を覆って抑えて、動けずにいる私を、笑えばいいし哀れめば良い。きっと私は今日も家に帰って、色んなことを思い出しながら辛くて泣くのだろう。それでもまだやめさせないで欲しい。愚かで無意味だ、けど好きだ。



























あぶく