真夜中にインターホンを連打するような友人を持った覚えはない。
そもそも部活に集中するために少しでも学校に近い家を、と珍しく厳しい親が与えてくれた貴重な部屋に、むやみやたらと友人を上がりこませてたまり場に使われるのは御免だったし、遊びの場として使うことに自分自身抵抗があったので、この場所を教えている人間すらそういない。この訪問が間違いであろうとなかろうと深夜2時という非常識な時間に馬鹿みたいにインターホンを鳴らしまくる輩に文句を言ってやるつもりで強めにドアを開くと、すぐに何かにぶつかった衝撃と共に、ゴン!という音が響いた。
一瞬驚きはしたものの、足元から聞こえた「痛ぁぁい」という間抜けな声で全てを理解する。





「…こんな時間に何か用ですか」
「なんかサークルの人たちと飲んでたんだけど終電なくなっちゃって気付いたら誰もいなくてーどうしよーって思ったんだけど、そーいえば日吉ん家近い!って思って歩いてきたー」
「こんな時間に一人でフラフラ歩いてたら危ないでしょう!」
「いやでも日吉電話して寝てたら悪いなーとか思って」
「夜中にインターホン鳴らされまくる方がよっぽど迷惑ですよ」
「ごめんね?あとお水くれたら嬉しい」




玄関先でこれ以上騒ぎ立てるわけにも行かず、泥酔状態の彼女を部屋の中に招き入れ、水を用意しようと背を向けた瞬間、またドンという音が響き渡った。どうやらサンダルのホックをはずそうと屈んだ拍子に倒れこんでしまったらしく、痛いと呻きながらあろうことか玄関でそのまま寝そべりだした。
あーもう、と言いながら彼女の靴を脱がせて引っ張り上げると、アルコールの匂いが酷く鼻に付いた。俺が思い切り顔を顰めたことにも気付かず、ごめんねー、なんて言いながら先輩は笑い続けている。これだから酔っ払いは嫌いだ。






先輩は普段から明るい人ではあるけど、ぶっとんだ氷帝テニス部の先輩達の中では比較的節度がある方の人間だ。それがどうもお酒が入ると制御が利かなくなってしまうらしく、以前のテニス部の飲み会の時にも散々いじり倒された。その時に自らが犯した過ちを忘れるはずが無いのに、先輩はそれからも繰り返し浴びるほどの酒を飲む。そんなことで嫌な思い出や不安が消え去ってくれるのならば俺だって、部活の飲み会での一気飲みを断りなどしない。後悔や自己嫌悪が蓄積していくだけで、それらは消えてくれるわけではない。その一瞬の間忘れていられるだけだ。先輩は自らの犯した過ちから逃れるためにその一瞬に依存している。





冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ、高潮した先輩の頬に押し当てると「冷た!」と言って先輩は無邪気に笑った。人の気も知らず気楽なもんだ。正座する俺の膝の上に頭を乗せると、先輩はそのまま目を閉じた。まさかここで寝てしまうつもりなんだろうか。




「跡部さんに電話して迎えを出してもらうとかあったでしょう」
「ヤだよあいつ怒んじゃん」
「怒られて反省して下さい」
「ひどいなあ」





この人は本当は跡部さんに叱られることを恐れているわけではない。




跡部さんはその影響力の範囲の広さは計り知れないけれど、実は人間関係に関しては深く狭い。馬鹿みたいな人数の部員を全て把握しまとめあげてきたけれど、本気で心配して怒ったり、心を許して会話する人間はその中でもごく一部だ。本当の自分を見せている相手なんてそれよりももっと一部なのだろう。レギュラーとして一緒に練習して来た俺やマネージャーとして付き合いが長い先輩はその一部に入っていると言っていいのかは分からないが、他の部員に比べて親密であることは確かだ。先輩がそのある意味特別であり、だからと言って特別ではないこの矛盾に苦しめられていたことを俺は知っている。
跡部さんが先輩を選ばないように、先輩も俺を選ばない。選ばないけど拒否はしない。その少しだけ心地良いような地獄に俺も長年苦しんでいる。







そして先輩は長年大切に育て守ってきた跡部先輩への思いを、酒の席で自ら暴露するという取り返しのつかない失態を犯している。そんな風に不用意に漏れ出してしまって良い程度の想いでなかったことは、場にいたテニス部の全員が重々に分かっていて、子供のように「好きだ」と泣き喚く先輩に、跡部さんは気まずそうに顔を背けるばかりで何も言わなかった。忍足先輩が、全員飲みすぎだとその場を治めて異様な雰囲気のままその日の宴会は閉幕した。終電を逃した数人が俺の家になだれ込んで雑魚寝をする中、俺はトイレで一晩中後悔と摂取したアルコールを吐き出し続ける先輩の背中を摩っていた。それからテニス部の飲み会は開かれていない。



彼女が本当に恐れているのは失望されてもう怒られることもないかもしれない、ということ。



跡部さんはあの一件に対して、まるで何事も起こらなかったかのように何も言わないし、先輩にも以前と同じように振舞っている。そんな大人の対応もまた先輩にとっては複雑らしく、彼女の不安や不満はアルコールを摂取することによってボロボロと漏れ出す。主に俺に。
一瞬の快楽に依存して度々アルコールに溺れる彼女を心底愚かだと思うけど、不憫にも思う。だから俺はこの人を受け入れてしまう。たとえこの人が俺を受け入れなくても。





「一度、跡部さんに怒られればスッキリするんじゃないですか、アンタも」
「…やだ」
「逃げて飲んで逃げていい加減しつこいです」
「おせっかい」
「どうも」
「あたしのこと好きなくせに」
「帰らせますよ」
「うそ、ごめん、日吉いなくなったらそれこそ死ぬ」





死んでしまえ。と、思わなくもない。
俺がそう言って、万が一先輩に何かあればきっと跡部さんに怒られるのは俺だ。面倒くさい人たちだ。俺が自分で選んでいるのだけど。とりあえずは俺の膝にかかる重みがなくなるかと思うと惜しいと思う気持ちのほうが強い。だから何も言わず、今日も俺は曖昧にちょっかいをかける。先輩の汗ばんだ額に張り付く前髪を掻き揚げると、薄く開かれた目と視線が合って、先輩が嬉しそうに笑う。






「もー付き合っちゃおーか」



へらへらと笑いながら先輩は俺の顔の前に手を翳す。
「そうですね」そう言って俺がこの手を取ろうと、決してそれは現実にならない。翌朝目を覚ました先輩は「本当にごめん」と何度も頭を下げながら己の残酷さを悔いて罪悪感に苛まれるか、あるいはこのやり取り丸ごと何も覚えていないか、どちらにせよ俺が本当の意味で先輩に選ばれることなどない。この人はたまにこうやって俺の傷を抉るのが趣味なのだ。




「優しいね、日吉」
「アンタは最高に優しくない」




なにそれ、と先輩は気持ちよさそうに柔らかく笑うだけでその意味をやっぱり受け止めようとはしてくれない。酔っ払いなんて、大嫌いだ。













花食みの夜