たいして設備の良くないビジネスホテルも3日目となると慣れてきて昼まで寝られるようになった。よくよく考えれば寝る他にすることなんてないのだから、ベッドだけでも良さそうなところを選べば良かった。私が相談なしに一人で決めることはいつもロクなことにならない。

わざわざこんな錆びれたホテルを選ばずとも、きっと景吾は私を探しになんて来ない。


夥しい数の不在着信を確認し、一番上の忍足の名前をタップする。まだ、親や友達を話す気にはなれなかった。忍足は学生時代から何かと都合の良い男だった。執着の薄い男だったが私とも景吾とも長い付き合いで、時々連絡を取り合う関係が続いている。間に入るでもなく、どちらの味方をすることもなく、ただ愚痴を言えば「知らんわ」と流してくれる。その気軽さが程良かったのか、縁は切れずにいる。こんな時でも話をしてくれるのは、こいつ以外に思い付かなかった。


「やっと出た、ほんまにちょっと死んだかと思ったわ」


電話越しに聞こえる忍足の声は珍しく、本当に安堵したようで、それまでの焦りを想像させた。3日にも渡って他人との連絡を絶っていたことへの罪悪感が途端に押し寄せる。こんな形しかとれなかったことが情けなく、恥ずかしい。


「お前大人やねんから、逃げ回るとかはやめろ」

「ごめんなさい…」

「お前どこおんねん?ていうか誰とも連絡とってへんかったん?」

「うん、まだ忍足にしか電話してない」

「いや何で俺からやねん…もっとあるやろ…」

「誰からかけていいかわかんなくて」

「いや、跡部やろ、どう考えても」

「景吾にかけることはもうないよ、ほんとに」

「お前の中ではやろ」

「話したよちゃんと」

「あんなんはちゃんとに入らん」

「…」

「そのせいで跡部はお前の5千倍は大変な目に遭ってるで」

「うん…」

「とりあえず切るから他の人にも連絡返しや、出来たら跡部とももっかい話せ」


事実を突きつけられて気が遠くなる。分かっていた。だから私は逃げた。


今日は景吾と入籍するはずの日だった。私のような一般家庭の出の女を景吾は選んでくれた。私のような人間が家に入ることを向こうのご両親が快く受け入れてくれたのもの、きっと景吾の並々ならぬ努力があってのことだろう。

私は仕事を辞めるつもりはなかったけど、景吾の家からはどう考えても通いづらい職場に、毎日送迎を出すと言われ気が引けて大人しく退職を決めた。きちんと跡部家に入り、景吾のサポートをしていく予定だった。デスクを片付ける私に、先輩が「勝ち組だね」と笑いかけてくれたのに、私は上手く笑えなかった。


景吾は世間知らずで浮世離れしていたけど、私たちは他の学生カップルと同じように素朴に愛を育んできたと思う。感覚の違いはお互い歩み寄ったし、景吾も常識外れた金銭感覚を私に無理に押し付けることはなかったし、彼のそういう聡明で寛大なところが好きだった。

景吾と結婚出来たらな、と無邪気に考えていた願望は年齢と共に現実味を帯びたのに、「跡部家との結婚」と思うと少しも現実的に思えなかった。いつまで経っても人からの祝福が腹落ちすることはなく、歯車が噛み合わないような違和感は消えない。結婚しようと景吾に言われた時にちゃんも話をしておけばこんなことにはならなかったのかもしれない。景吾と離れがたいというだけで受け入れた私が軽率だった。順調に進む段取りに私の気持ちだけが追いつかないまま事が進んで、取り返しがつかないという気持ちだけが大きくなっていた。もはや私は景吾のことが好きだったのかも分からないほど追い詰められていた。

入籍3日前にして、私は怖くなって逃げ出した。


「やっぱり結婚はできない」


電話でそう告げた私はどう考えても普通じゃなかったけど、景吾は「分かった」と言っただけだった。その後景吾がどれだけ恥を晒す羽目になったのかを考えると恐ろしくて、誰の電話にも出られなかった。


景吾のことは本当に好きだった。今でも、景吾以上の人にこれから出会うことなんてないだろうと自信を持って言える。

一緒に背負えない私の愛は、結局その程度だったということなんだろうか。未だにどうすれば正解だったのかが分からない。


「分かった」と、許してくれたのは間違いなく景吾の愛だ。泣く資格なんてきっと私にはないのに、優しいあの声を思いだすと涙が止まらない。




追憶と薄情